旧山陽道・大山峠



 <現在の道>
 京都と九州を結ぶ街道として利用された山陽道(西国街道)は、難所として知られた大山峠を通っていた。明治17(1884)年、それまでの大山峠を通るルートに代わって、東広島市八本松町から広島市安芸区瀬野町の間に瀬野川の谷筋に沿って道路が建設された。
 市境を挟んだ区間では、山陽本線もほぼ同じルートを通っており、国道2号線と並行して走る。



 国道2号線と国道486号線の交わる、溝迫交差点から少し西へ行ったところに、八本松交番がある。その交番の手前に国道2号線と斜めに交わる道があり、この道が旧山陽道である。なお、国道を挟んだ反対側の、ショッピングセンターの駐車場には、旧山陽道長尾一里塚の石碑がある。旧山陽道は、大山峠へと向けて、緩やかな山の斜面に作られた住宅地の中へと入っていく。



 道なりに住宅地の中を進んでいくと、前方に県道志和インター線の盛土が現れ、その下を通る側道と合流する。



 国道2号線安芸バイパスと県道志和インター線の工事により、この辺りの風景は一変しており、以前はそのまま道なりに大山峠へと行けたが、現在は側道と合流した先のボックスカルバートを通って県道の下をくぐり、右折してすぐの民家の脇を、大山峠へと続く林道へと入っていく。なお、国道2号線安芸バイパスは大山峠の下をトンネルで抜けるルートとなっており、そのトンネル工事が続けられている。



 大山峠へと続く林道には、林道大山峠線という名前がついている。林道に入って少しの間は舗装されているが、やがて舗装も途切れ、さらには車も入れない人が歩けるだけの幅の山道へと変っていく。



 山道となったあと、三つ又の分岐が一箇所あるが、左へ進む道は行き止まりで、右側が大山峠へと続く旧山陽道。


 なだらかな山道を登りつめたところに、わずかな平場がある大山峠の頂上に到着。行き交う人々の姿もなくなり、やや荒れた感じもある峠の頂上には、「旧山陽道大山峠」と刻まれた石碑が建っている。
 傍らの説明板によると、江戸時代はここに休憩所があり、参勤交代の大名が休んだり、村人がわらじや豆を売って賑わった場所とのことたが、今ではその面影は全くない。


 大山峠の頂上から西に10mほど下りたところに大山清水という、湧き水が出ている場所がある。昔は山陽道を行き交う人々の喉を潤した名水だったそうだか、近年はあまり水量がないようで、残念ながら私が行った時もほとんど水が出ていなかった。



 雑木林の中の山道を瀬野へ向けて下っていく。大山峠を通るこの道が街道から外れて100年以上が経過し、整備されなくなったため、現在では人が歩けるだけの山道になってしまっている。
 しかし、江戸時代の街道は2間(約3.6m)ほどの道幅で整備されていたそうで、昔は馬や荷車、参勤交代の大名の隊列も通っていたはずなので、かつてはもう少し道幅が広かったのではないかとも思われる。


 この屋敷跡の奥に五輪塔という石を重ねて作った墓があり、大山刀鍛冶の墓と伝えられている。

 瀬野へと下る途中、道の右手にある大山刀鍛冶の屋敷跡。室町時代から安土桃山時代の頃、数代にわたり、この場所に刀鍛冶が住んでおり、その屋敷跡にたたらもあったが、昭和20年の水害で流失してしまったとのこと。また、ここには関の清水という湧き水もあったそうだ。


 木々が生い茂り、やや薄暗い雑木林の中を歩き続け、前方が明るく開けてくると、峠の西側でも林道の工事が行われている。狭い山道から、再び車も走れる幅の道になり、未舗装の路面には自動車のわだちも残っている。


 小さな堰堤が連続して築かれている沢は、賀茂郡・安芸郡の郡境(現在は東広島市と広島市の市境)となっており、路側には郡境を示す石碑が建っている。




 瀬野川の支流・大元谷川に沿った砂利道の林道を下っていく。砂利道が終わり、道路沿いに住宅も点在する舗装された道に入るところが林道の起点となっており、その手前に、「代官おろし跡」と刻まれた石碑が建っている。ここから、大山峠の頂上に向っては、急な坂道であるため、どんなに偉い人も駕籠を下りて歩かなければならなかったことから、この名前がついたそうだ。また、この石碑の近くには、大山峠を行き交う馬子が歌ったという「瀬野馬子唄」の歌詞が書かれた案内板も建てられている。



 川沿いに続く住宅の横を通り抜け、山陽本線のガードの下をくぐると、ほどなく国道2号線に出る。


 このページの作成にあたり、参考とした文献等
  広島県文化百選5・道編 中国新聞社


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