国道54号線・上根峠



 <現在の道>
 昭和49年に着工し、平成2年に暫定2車線(計画は4車線)で開通した、国道54号線上根バイパス。
 旧道(現在は県道浜田八重可部線として供用)東側の山の中腹に、谷に架けられた橋と3つのトンネルがあり、広島市から安芸高田市八千代町の間の難所となっていた、上根峠を登っていく。



 上根バイパスと旧道の分岐点の様子。バイパスは、大きな高架橋で根之谷川を一気にまたぎ、東側の山の中腹へ進んでいく。旧道は高架橋の脇をそのまままっすぐ進んでいく形で分かれており、瀬戸内海と日本海の分水嶺となっている上根峠へと続く。



 バイパスから分岐したあと、しばらくはほぼ直線状の整備された道が続く。しかし、県道大林井原線の交点の先で、広島市から安芸高田市に入ったあと、向山の小さな集落を過ぎると、道はやがて根之谷川の流れに合わせるような形で、左右にカーブを切り始める。




 根之谷というバス停の先で、旧道は右に大きくカーブを切り、潜竜橋という名前のコンクリート製のアーチ橋で根之谷川を渡る。




 カーブから先は上根峠の頂上へ向けて、一気に60mほどの標高差を登っていく。登り道の途中で、路肩に車を止めて下を眺めると、先ほど通ってきた道が見える。



 道路の右側に建っている小さなお堂には、馬頭観音という観音様が祭られている。



 上根峠の頂上に近づくと、民家が見られるようになり、その先のカーブに、露出した断層を見ることができる。解説を記した八千代町指定文化財の看板があり、もとは簸ノ川(ひのかわ)の上流部であったこの地が、河川争奪現象により、根之谷川の流域となったことが記されている。



 標高268.2mの上根峠の頂上まで登りきると、その先は平坦な道がほぼ直線状に続く集落の中の道となっており、再び峠の麓まで下るといったほかの峠とは、大きくイメージが異なる。
 明治の末期から大正にかけては、上根の市は旅館や飲食店が軒を並べ、峠を往来する荷馬車などで賑わったそうであるが、大正4年に広島−三次間の芸備線が開通したことにより次第に寂れていき、現在ではひっそりとしている。


 道路沿いに続く上根の集落の中を抜け、信号のある交差点のところで、右手から近づいてきた上根バイパスと合流。




 ところで、潜竜橋の手前1km足らずのところに、カーブの途中にガードレールの切れ目があり、旧道の右手下の民家の方へと下りる幅1車線ほどの道が分かれている。この道は明治17年に改修工事に着手し、明治23年に完成した、旧々道の一部である。民家の対面にある小屋の脇には水準点も設置されており、かつてはこの道が主要な道であったことの名残を残している。(下の写真)



 旧々道は、坂根橋という名前の、古びたコンクリート製の短い橋で根之谷川を渡り、旧道の対岸を進んでいく。旧々道の完成前は、坂根橋を渡ったあたりから一気に峠の頂上へと登る急な道が続いていたそうであるが、その道がどこにあったのかは、すでによく分からない状態となってしまっている。


 民家の前を通り過ぎ、そのまま旧々道をまっすぐ進んで行くと、潜竜峡ふれあいの里という施設の中へ道は続いている。ちなみに、ふれあいの里は休業中。



 中に入ってみると、旧双三郡布野村出身の歌人・中村憲吉の短歌が刻まれた石碑と、中村憲吉の略年譜が建っている。石碑には、「なづみのぼる上根のさかの九折坂(つづらをり)自動車(くるま)にさやる木の葉は折らず」と刻まれている。これは、中村憲吉が昭和8年、帰省する際に上根峠で詠んだ短歌の中の一首との説明がある。
 また、石碑の前にある石畳は、旧々道の坂道に約1kmにわたり敷かれていた石畳が保存されているもので、傍らには「舊縣道の石畳」と刻まれた石碑も建てられている。明治35年にこの石畳の敷設が完了した時点で、1kmにもわたる規模の石畳は天下の険として有名な箱根峠と上根峠にしかないものだったそうである。



 道の側に桜の木が植えられている旧々道であったと思われる小道を進んで行くと、右へと大きくカーブを切ったところで道は途切れており、その先はヤブと化している。かつては、このカーブで大型車が一度で曲がりきれなかったため、上根峠の中の難所とされていたようである。旧道は、昭和15年から3年間の突貫工事で完成したそうで、この先の旧々道は旧道の完成後に廃道となったようだ。


 このページの作成にあたり、参考とした文献等
  ふるさとの峠と街道 菁文社


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